ナビがあるから大丈夫、のはずだった
「まっすぐです。その先、右方向です」
カーナビの淡々とした音声に、私はハンドルを軽く握り直した。
その日は、はじめての取引先への訪問で、普段の通勤ルートとはまったく違うエリア。
スマホのナビアプリに住所を入力して、「案内開始」ボタンを押した瞬間、すっかり安心してしまっていた。
方向音痴だって、ナビがあれば大丈夫。
どんなに入り組んだ田舎道だって、ナビがあれば迷わない。
だって、ナビは正しいんでしょ?
――このときの私は、そんなふうに思っていた。
はじめての“田舎道ナビ”にワクワクしていた
その日は朝から少しだけ緊張していた。
新しく担当することになったクライアントの会社が、ちょっと郊外のほうにあって、駅から遠い。
ということで、私は会社の営業車を借りて、一人で向かうことにした。
車での移動は慣れている。だけど、ナビ任せの運転にはどこか“冒険感”がある。
知らない道を進んでいくときの、あのちょっとしたドキドキ。
「ナビがなかったら絶対来れないな〜」なんて、妙にテンションが上がっていた。
車内ではお気に入りのプレイリストを流しながら、
ナビに従って曲がって、進んで、また曲がって。
まるで“おつかいゲーム”のプレイヤーになったような気分だった。
道はだんだん細くなっていく。でもナビは止まらない
住宅地を抜けたあたりから、景色が一気に変わった。
大通りが終わり、脇道へ。
脇道の先には畑が広がっていて、道路はどんどん細くなっていった。
「あれ? ちょっと狭いな…」
「いや、でもナビが言うなら、合ってるんだよね?」
そう思いながら進んでいくと、
片側が田んぼ、もう片側が雑木林という“ザ・農道”のような場所に出た。
アスファルトはひび割れていて、車1台分がやっと通れるほどの幅。
そのときふと、助手席のナビ画面を見ると、
「この先、道なりです」と、青い線はまっすぐ続いていた。
…いや、待って。
その先、本当に道なの?
わかってた。たぶん、間違ってる。でも引き返せなかった
ちょっとだけ、不安がよぎった。
スマホを確認すると、電波が一瞬だけ途切れて「再検索中」と表示された。
うっすらと汗が出てきたけど、車を止める場所も、Uターンできる場所もなかった。
「進むしか…ないか」
心の中でそうつぶやいて、私はさらに農道の奥へと進んだ。
この時点で、もうほとんど“帰れない小道”に入っていた。
道の端には草が生い茂り、タイヤが落ちたらそのまま田んぼにスリップしそうだった。
鳥の鳴き声と、サイドミラーが草に当たる“シャッ”という音だけが響く。
ナビはまだ言っていた。
「まもなく、目的地周辺です」
いや、うそでしょ?
ゴール目前、“それ田んぼやで”の洗礼
あと100メートル。
ナビがそう表示した瞬間、前方に見えたのは――
田んぼのど真ん中に立つ電柱だった。
舗装された道路なんて、もうどこにもない。
草むらをかき分けて進んだその先に、クライアントの会社なんて、もちろんない。
ブレーキを踏んで、ようやく私は、
「あ、これ完全に道間違えてるわ」と気づいた。
ナビを信じすぎたあまり、
完全に“道なき道”を進んでしまった私の小さな冒険は、
田んぼの縁ギリギリでようやく終わった。
ナビとの信頼関係が、音もなく崩れた瞬間
“Uターンできない道”にハマる恐怖
車を止めたはいいものの、そこで私は完全に詰んでいた。
狭い道、急な傾斜、後ろは見えない雑草の壁――
バックで戻るにも、切り返すスペースなんてほとんどなかった。
しかも、ちょうどタイミング悪く雨まで降ってきた。
ワイパーがガガガと音を立てる中、
「このまま後ろに下がったら、マジで田んぼに落ちるかも…」という不安がどんどん大きくなる。
車内は完全に無音。
カーナビはすでに「目的地周辺です」の案内を終え、沈黙していた。
…いや、もうちょっと責任持ってよ。
ドライブレコーダーが“事件の全貌”を記録していた
バックモニターも頼りないし、サイドミラー越しにもよく見えない。
仕方なく、いったん降りて道を確認しようとドアを開けた瞬間、
右足がぬかるみにズブッと沈んだ。
「うわぁ!」って声が出たときには、
裾が泥でびしょびしょになっていた。
一度クラクションでも鳴らして誰か来てくれないかと思ったけど、
当然のように周囲には誰もいない。
まるで世界に自分しかいないかのような、しーんとした農道。
あとで知ったのだけど、
そのときの一部始終は、車のドライブレコーダーにしっかり記録されていた。
同僚に見せたら、「いや、これドラレコという名のコントだね」って笑われた。
笑ってもらえてよかったけど、
あのときのわたしはマジで、人生で一番運転に自信を失っていた。
ナビって万能じゃなかったんだと気づいた朝
なんとか細かく切り返して、
ぬかるんだ田んぼに落ちないようにハンドルを少しずつ動かして――
ようやく、大通りまで戻って来られたのは、その15分後のことだった。
もはや心臓バクバク。
前髪は湿気でうねり、足元は泥、メイクも崩れていた。
でも、それでも間に合った。
アポの時間まで、残り5分。
急いで駐車場に入って、エレベーターで息を整えながらこう思った。
「ナビの言うことを、100%信じちゃダメだな」
ようやく現実的な学びを得た私は、
その日を境に“ナビとの距離感”を見直すことになる。
スマホのマップと紙地図を見比べるタイプになった
それまでは、スマホのナビに案内されるまま、
「その通りに走っていれば、目的地に着く」と思っていた。
でも、あの日を境に、
事前にルート確認をするようになった。
紙の地図も鞄に忍ばせるようになったし、
Googleマップの航空写真で「本当にそこ道あるの?」を確認するクセもついた。
なんなら、クライアントのサイトの「アクセス」ページすら事前に目を通す。
カーナビは優秀だけど、万能じゃない。
それを実感したことで、わたしのドライバーとしての行動は一気に変わった。
同僚に話したら、なぜか“ナビ事故体験談大会”が始まった
この一件を会社で話したところ、なぜか営業部内で“ナビ事故あるある”大会が勃発。
- 「畑の中でUターンしろって言われた」
- 「山道に入って、電波消えて永遠に帰れなくなった」
- 「海の中に突っ込めって言われたことある」
…なんでみんな、そんなに被害に遭ってるの。
カーナビは便利だけど、絶対じゃない。
むしろ、“ちょっとおバカ”な部分があるってことを、
この日をきっかけに、みんなで共有できるようになった。
「ナビに任せるだけの運転」から卒業した日
カーナビへの過信が、私を“考えない運転手”にしていた
これまで、カーナビの指示を疑ったことがなかった。
むしろ、どんな道よりも“信頼できる相棒”だと思っていた。
でも、あの“田んぼ事件”以来、わたしは痛感した。
便利さに甘えすぎると、判断力って驚くほど退化するんだな、と。
「道を選ぶ」という、本来なら自分がやるべきことすら、
カーナビに丸投げしていたあの頃の自分。
たとえるなら、
「先生が言うことに従ってれば正解」って思い込んでた中学生のような感覚だったのかもしれない。
「どっちが正しい?」じゃなく「どう考える?」へ
それからの私は、ナビを使う前に地図を見るようになった。
画面だけじゃなく、地形や周囲の建物を確認しておく。
目的地の周辺が“住宅地”なのか“工業地”なのかだけでも分かると、進む勇気がぜんぜん違った。
それに、カーナビの指示と、自分の直感がズレたときは、
「ほんとにこっちで合ってる?」と一度立ち止まるようになった。
以前なら「ナビが言ってるから正解」だったけど、
今は「ナビが言ってる“けど”、私はどう思うか」で考えるようになった。
それがたとえ面倒でも、
田んぼに落ちかけた私にとっては、成長の証だった。
自分でルートを“調べる時間”が、楽しくなってきた
不思議なもので、
そうやって少しずつ“自分の運転に責任を持つ”ようになったら、
むしろその過程が楽しくなってきた。
たとえば、Googleマップのルート検索で、
「距離優先」や「推奨ルート」じゃなく、
わざと“通ったことのない道”を選んでみる。
交通量が少ない裏道だったり、
のどかな農道(※もう迷わない)だったり。
「今日のルート、ちょっと自分で工夫してみた」
そんな小さな工夫が、運転そのものをもっと好きにしてくれた。
“安心しきった無意識運転”から、“ちょっと考えるドライブ”へ
わたしの運転は、ちょっとだけ変わった。
たとえば、道に迷ったときも、
焦るより「なぜこうなった?」って一度考えてから動くようになったし、
同じ道でも、「ここ、ちょっと景色いいな」って気づける余裕が出てきた。
カーナビを信じて突っ走るだけの運転から、
「今、何をしてるかを自覚する運転」へ。
それは、ちょっと大げさだけど、
“自分の頭で考える”ことの練習にもなっていた。
「ナビのせい」じゃなく、「選んだのは自分」
田んぼに突っ込みかけたとき、
私はナビにイライラしていた。
「なんでこんな道を案内するの?」
「アプリのせいじゃん…!」
でも今なら思う。
最終的にその道を選んだのは、私だった。
ナビはただ、候補を出してくれただけ。
そのルートに進むかどうかを決めたのは、いつだって自分。
誰かのせいにしたくなる瞬間って、
たぶん“自分で考えていなかった”って気づいたときなんだと思う。
車の中でひとり、考える時間が持てるようになった
それからというもの、車の中でひとりになったとき、
私はときどきナビを切って、無音で走るようになった。
音楽もなし。案内の声もなし。
窓を少し開けて、外の空気を感じながら走るだけ。
不思議と落ち着いて、
「あの時どうしてあんなに焦ってたんだっけ?」なんて、
自分の心の声に耳を澄ませられるようになった。
車って、ただ移動するだけの乗り物じゃない。
ひとりで自分に戻るための空間なんだなと、初めて気づけた気がした。
再びナビに頼ってしまった日、事件は起きた
「もう迷わない」なんて思ってたあの日までは
あれから数ヶ月。
私は“ナビに振り回されない運転手”として、順調にカーライフを楽しんでいた。
地図アプリと現地写真で下調べ、
念のためのルートバックアップ、
不安なエリアでは音声案内を使わず自分で判断。
おかげで、あれ以来「道に迷って焦る」ということは一度もなかった。
自分で道を選べるって、なんて安心感なんだろう。
「もう私は、ナビに頼らなくても大丈夫」
――そう、思っていた。
その日までは。
ちょっと急ぎの用事だっただけなんです
平日の午後、仕事を早めに切り上げて、
私は親戚の家にお見舞いに向かっていた。
道は一度も通ったことのない山間部の住宅地。
夕方になればなるほど暗くなるし、時間もギリギリ。
「さすがに今日はナビ頼るか……」
久しぶりにナビアプリを立ち上げ、目的地をセットした。
すると、表示されたルートが、2パターン。
- 大通りを遠回りして進む、やや安全ルート
- 山道を突っ切る、時短ショートカットルート
当然、時間が惜しい私は後者を選んだ。
ここで一瞬でも「田んぼ事件」が頭をよぎったけど、
「さすがに今日は大丈夫だろう」と軽く流してしまった。
細くて急な山道。まるで“あの日の再放送”
ナビはご機嫌に「次のT字路を左方向です」と案内してくれる。
言われるがままにハンドルを切ると――
待っていたのは、細い急斜面の山道。
「あれ? ちょっと…似てない?」
道幅はギリギリ、すれ違い不可。
ガードレールはところどころ途切れていて、左側は急傾斜の谷。
落ちたら終わる。
背中にうっすら冷や汗が浮いた。
でも、引き返すにはもう遅い。バックもできない。
「まさかまた…いや、まさか…」
そんな“まさか”が、ふたたび現実になろうとしていた。
そして“田んぼの再来”を越える衝撃が
しばらく進むと、
道の先に――巨大な落石があった。
崩れた斜面から転がってきたであろう大きな岩が、
道を半分ふさぐようにドーンと鎮座している。
「え、ちょっと待って」
動けない。通れない。でも戻れない。
どこかで見た景色、どこかで味わった感覚。
そう、まさに田んぼの時と同じ、“選択肢ゼロ”状態だった。
ただひとつ違ったのは、今回はもう泣きそうにならなかったこと。
ナビはあくまで“知らぬ存ぜぬ”の姿勢
ナビは、相変わらず機械的な声で言う。
「300メートル先、右方向です」
――その300メートル先に岩あるんですけど。
「まもなく目的地です」
――そこ、通れないんですけど。
もう怒る気も失せて、笑いがこみ上げてきた。
「うん、そうだよね、ナビさんはさ、
現地の岩の情報までは知らないもんね。そりゃ無理だよね」
思わずひとりごとが出る。
気づけば、車の中で一人、声を出して笑っていた。
あの時と違って、今回は焦らなかった。
それはきっと、前の失敗から“笑う余裕”を手に入れたから。
どうにか切り返して戻ったとき、ちょっと誇らしかった
狭い道での切り返し、傾斜でのブレーキ調整、
そして後続車が来ないタイミングを見計らってのUターン。
ひとつひとつがスリリングだったけど、
なんとか元の分岐まで戻ってこられた。
心臓はドキドキ。手は汗でベタベタ。
でも、気持ちは案外すっきりしていた。
「前だったら、泣いてたな」
そう思ったら、ちょっとだけ自分を誇らしく思えた。
“相棒”としての車と、“頼りすぎない”ナビとの距離感
「またか…」って笑えるようになった自分がいた
岩で通せんぼされたあの日から数日後。
会社の同僚にその話をすると、みんなが一斉に吹き出した。
「またナビにやられたの!?」
「もうイッチちゃん、ナビ芸人名乗っていいよ」
悔しいけど、ちょっとおもしろかった。
でも、その時ふと思った。
――なんで今回は、落ち込まなかったんだろう?
以前なら「またやっちゃった…」と自己嫌悪に沈んでたと思う。
でも今回は、“自分がどう動いたか”にちゃんと意識が向いていた。
- 焦らず停車した
- 状況確認して判断した
- 戻るルートを冷静に確保した
たぶん私は、“車を動かす”だけじゃなく、“自分で考えて動かす”ことができるようになっていた。
車内って、誰にも邪魔されない「リセット空間」
最近は、車を「通勤や移動の道具」じゃなくて、
「自分のスペース」だと感じることが増えた。
たとえば、
- お気に入りのコーヒーを入れてから乗り込む
- 気分に合わせたプレイリストを流す
- 曇ったガラスをサッと拭きながら深呼吸する
それだけで、ほんの少し気持ちが切り替わる。
部屋でもオフィスでもない、誰にも邪魔されない空間。
信号待ちの時間や、駐車場に着いてすぐの2分間が、
ちょっとした“リセットタイム”になることに気づいた。
車がある生活って、こんなふうに「自分を整える時間」もくれるんだなと、
改めて感じている。
カーナビは“便利な道具”であって“人生の羅針盤”じゃない
あれから、私はナビを使うことを完全にはやめていない。
でも、以前よりもずっと距離感がある。
言うなれば、“仕事ができるけど少し抜けてる後輩”みたいなポジション。
ちゃんと指示を出してくれるけど、盲信しない。
自分の目と頭と直感も使って補完する。
それが“人間とテクノロジーの共存”ってやつなんだと思う。
そして人生でも、きっと同じことが言える。
誰かの意見やルールに従っているだけじゃなく、
自分の中の“これは違うかも”って感覚を大事にする。
その積み重ねが、「私はこういう人間です」っていう軸になるのかもしれない。
「ちょっと遠回りでも、安全な道を選ぶ」ってすごく大人な判断だった
今では、多少時間がかかっても、
大通りをぐるっと回って目的地に行く選択をすることが増えた。
かつての私は、「最短ルートが正義」だと思っていた。
でも今は、“心がすり減らない道”を選ぶのがいちばん正解だと思ってる。
車のナビと一緒。
人生のナビにも、いろんなルートがある。
でも、その中から“自分にとって安心できる道”を選ぶことが、
意外と一番難しくて、一番尊いことなのかもしれない。
「運転怖いかも」と思ってた自分が、今はこんなに自由に走ってる
昔は、山道も苦手だったし、
知らない道を走ると緊張して手汗がすごかった。
でも今では、週末になると「ちょっと遠出しようかな」と思える。
ドライブ先でおいしいものを食べたり、
道の駅で買った野菜をトランクに入れて帰ったり。
ナビの誤案内に笑って、
道を間違えても「ま、いっか」で済ませられるようになって――
「運転が怖い」から、「運転って楽しい」へ。
気づけば、カーライフは“私らしい日常”になっていた。
自分で選ぶ」ことが、こんなにも心地よいなんて
あの田んぼの手前で、私は“誰か任せ”の運転を卒業した
たかが道に迷っただけ。
たかがナビの言うことを聞きすぎただけ。
だけど、あの出来事は、
間違いなく私に「自分で決めることの大切さ」を教えてくれた。
だって、あの日までは、私はただの“乗せられている人”だったから。
カーナビに、会社に、人の評価に――
自分の行動をぜんぶ“おまかせ”していた。
けれど、田んぼの手前で立ち止まったあの瞬間、
初めて気づいた。
「何もかも任せてるって、怖いんだな」
「間違えても、自分で選んだ道」って思えるだけで、こんなに強くなれる
ナビが言うから。
みんながそうしてるから。
普通はこっちだから。
そんな理由で選んだ道って、
もし失敗したとき、誰かのせいにしたくなる。
でも、ちゃんと自分で考えて選んだ道なら、
たとえ間違えても「それでもいい」って思える。
田んぼの脇に突っ込みかけた経験も、
落石でUターンした経験も、
「それでも私は自分で選んだ」って言えるだけで、
なんだか人生に立ち向かえる気がした。
車は、自由の象徴じゃない。選択の練習台だった
運転って、自分で選ぶことの連続だ。
- どの道を通るか
- どこで止まるか
- どのくらいスピードを出すか
- 誰を乗せて、どこへ行くか
全部、自分で決める。
だから、私は運転を通してちょっとずつ
“自分に決めさせる練習”をしてたんだと思う。
そして、それがたまらなく楽しいと感じられるようになった今、
ようやく“自由に走ること”の本当の意味がわかってきた。
カーナビは今も使ってる。でも、それだけじゃ走らない
今でもナビは起動する。
でも、信じすぎない。頼りすぎない。
「案内ありがとう、でも最終判断は私がするよ」って距離感。
それが一番心地いい。
人間関係も、仕事も、SNSの投稿も――
ちょっと離れて見てみると、きっと同じ。
「この人がこう言ってるから」じゃなくて、
「自分はどうしたいか」で決める。
そういう選び方が、きっと一番疲れない。
人生の地図は、他人が描いてくれるもんじゃない
地図アプリみたいに、
「ここをまっすぐ」なんて案内してくれる人生なんてない。
どのルートが正解かなんて、最初は誰にも分からない。
でも、自分で決めて、自分で進んでいけば、
それがいつか“自分の道”になる。
そう信じられるようになったのは、
カーナビの言うことを信じすぎた、ちょっとおバカな私のおかげだ。
だから私は、今日もハンドルを握る。
ナビも使うけど、ちゃんと自分で考えながら。
遠回りでも、安全な道を、選びながら。
道に迷ってもいい。
ちょっと詰まっても、引き返してもいい。
泣いても、泥にハマっても、笑い飛ばせるようになったから。
カーライフは、私に“自分の人生のハンドルを握る感覚”をくれた。
さあ、今日はどこに行こう。
目的地はまだ決めてないけど、なんか大丈夫な気がする。
だってもう、私は“乗せられてる人”じゃないから。
ちゃんと、自分の足でアクセルを踏んでる。