看板娘かなちゃんとのバイト生活
大学2年の春、イッチこと“おれ”は、小さなカフェでアルバイトを始めた。
家から自転車で10分、駅前の通りから一本裏に入った場所にあるそのカフェは、木造の落ち着いた雰囲気が売りで、店内はいつもクラシックやジャズが流れている。常連さんが多く、ガヤガヤしていない、いわゆる「大人の隠れ家」的な存在だった。
最初の出勤日は、緊張で胃がきりきりしていた。
けど、その緊張をほぐしてくれたのが先輩バイトの“かなちゃん”だった。
「イッチくんって、なんか小動物っぽいよね。チンチラとか飼ってそう!」
……第一声がそれだった。
いや、確かに実家で猫は飼ってたけど、チンチラは初耳すぎる。だが、その突拍子もない発言と、屈託のない笑顔に、思わず笑ってしまった。
かなちゃんは大学4年生。
ショートボブにぱっちりした目が印象的な、元気系の女子で、スタッフや常連客から「看板娘」として親しまれている存在だった。
バイト初日から数日で気づいたのは、彼女の発言がいちいち“深読みしたくなる”ということ。
いや、天然なのか計算なのかは判断がつかないんだけど、とにかく引っかかる言葉が多すぎる。
ある日、注文ミスして落ち込んでいたときのこと。
「イッチくんって、落ち込んだ顔もかっこいいね〜。なんか守ってあげたくなる(笑)」
……えっ、どういうこと?
“かっこいい”って、今言った? え、誰かの話じゃなくて、おれのことだよな?え?
また別の日には──
「イッチくんって、元カレに似てるんだよね〜。なんか思い出す(笑)」
……それ、今言う?
似てるって言われて、喜んでいいのか、距離を置くべきか、リアクションに困るやつ!
こんなふうに、日々のバイトの中で“勘違いトラップ”を次々に仕掛けてくるかなちゃん。
おれは毎回、心のなかで一人ツッコミを繰り広げながら、「いやいや、これはたぶん誰にでもこうなんだろう」と自分を落ち着かせていた。
……が、ある日、決定的な“トリガー発言”が出る。
その日、おれは開店準備のため、朝の早い時間からカフェに入っていた。
厨房でコーヒーマシンの清掃をしていたら、かなちゃんがスマホをいじりながら、ぽつりとつぶやいた。
「イッチくんってさ……こういう人と結婚したいって、思っちゃうタイプなんだよね〜」
──……ん?
今、結婚って言った?
“こういう人”って、おれのこと?
それとも、SNSで見てた猫の動画の話?
……いや、どう考えても、今の文脈はおれに向かってだった。
しかも、彼女は言ったあとにこっちをチラッと見て、にやりと笑っていた気がする。
「え、かなちゃん、今なんか言った?」
「え? なんも〜(笑)」
いや、絶対なんか言ったし、顔に出てるって!
なに? これは? ドッキリ? 新手の人たらし術?
でも、こういうときに限って“あかねさん”が登場してくる。
あかねさんは大学卒業後、正社員として近くの会社に勤めながら、週末だけシフトに入っている姉御的存在。
彼女は“おれの勘違い”を察したのか、厨房の奥からひょっこり顔を出してきて、ニヤニヤしながら言った。
「イッチ〜、それ……もしかして、プロポーズじゃないの?」
「は!? いやいや、そんなわけ……」
「いや〜、あの子、たまにそういう匂わせ方するんだよね〜」
“そういう匂わせ方”ってなんだよ!?
あかねさん、さらっと爆弾投下しないで!
でも、あの発言を聞いたあとじゃ、もう平常心ではいられなかった。
その日のバイト中、おれは終始ソワソワしていた。
かなちゃんと目が合うたび、ちょっとした言動すべてが意味ありげに見えてくる。
・飲み物を渡すときの「ありがとう、イッチくん」
・ミスをしたときの「イッチくん、ドジっ子なとこも含めて好き(笑)」
・休憩中にふいに「イッチくんって、家事とか得意そう。将来、いい旦那さんになるよ〜」
……おいおいおいおい。
これ、もう「好き」って言ってるようなもんじゃん!?
バイト終わり、ロッカー室で制服を畳みながら、ついには“答え合わせ”をしようか迷ったくらいだ。
でも、もし違ってたら?
“なに言ってんの?”って空気になったら?
次の日から気まずくなるくらいなら、黙っていたほうがいい……?
──いや、待てよ。
あかねさんの言葉がよみがえる。
「それ……もしかして、プロポーズじゃないの?」
いくらなんでも大げさすぎるけど……
でも……でも、もしも、かなちゃんがちょっとでも、おれに好意を持ってるとしたら……?
この時点で、おれの中ではもう“恋愛フラグ”が立っていた。
そして、翌日──さらなる勘違いが加速する、波乱の幕開けとなる。
近づく距離、暴走する妄想
それからというもの、かなちゃんは相変わらず“距離感がおかしい発言”をぽんぽん投げてきた。
「イッチくんって、雨の日は本読むタイプでしょ?絶対そうだと思った!」
唐突すぎて、思わず「……はい?」と聞き返した。
「なんか、図書館にいそうな雰囲気っていうかさ、昔からモテそうだけど、あえて恋愛に興味ないフリしてそうなタイプ?」
──それ、もう“設定”じゃん。
おれは思わずカップに注いでいたアイスコーヒーをこぼしそうになった。
もちろん、そんな深い意味はないんだろう。
だけど、そういう無邪気な爆弾発言を繰り返されると、だんだんと“そういう目”で意識し始めてしまうのが男のサガってもんだ。
ある日、おれは遅番シフトに入っていた。
閉店作業の時間帯、客も減ってきて、店内はゆったりとした空気に包まれていた。
その日もかなちゃんはシフトインしていて、いつものようにキビキビと動いていた。
ふと、おれが棚の奥のグラスを取ろうと手を伸ばしたとき──
「イッチくん、背伸びする姿って可愛いね」
唐突すぎて、まじでグラスを取り損ねて落としかけた。
いや、それは褒め言葉なのか?からかわれてるのか?
「え、ああ、ありがとうございます……?」
「いや、なんか、猫背だけどがんばって伸びてる感がいいなって(笑)」
うーん、たしかにおれは猫背気味だ。でも、それを“かわいい”でくくるあたり、なんだかんだ興味を持ってるんじゃないかと期待してしまう。
そしてその期待は、数日後に完全に確信へと変わりかけた──いや、実際にはまったく違ったのだが。
その日、かなちゃんはいつもよりちょっとテンションが低かった。
カウンターの奥で、ふぅっとため息をついている。
「今日、なんか疲れた……」
「大丈夫ですか?無理しないでくださいね」
「うん、ありがとう……。あ、イッチくんって、聞き上手っぽいよね。……もし、彼氏だったら悩みとかちゃんと聞いてくれそう」
ん???
え、今の“彼氏だったら”って、言ったよな???
これ、もしかして……前フリ?
「あ、いや、別に告白とかじゃなくて!なんか、そういう感じの人だな〜って!」
……それが一番困るやつぅぅぅ!
おれの中で、妄想がスタートダッシュを切った。
もう脳内では、デート、映画、遊園地、プロポーズ(早い)まで一瞬で再生されていた。
でも、現実は違う。
あくまで、彼女は“なんとなく言っただけ”。
本人に悪気は一切ない。
なのに、おれだけが一方的に揺さぶられ、勝手に疲れていくという謎の関係性が続いていた。
そして、運命の“あの一言”が飛び出す日が訪れた。
その日は、開店前の仕込みが忙しくて、おれは厨房で野菜をカットしていた。
ふと、かなちゃんが店内の奥からスマホを片手に戻ってきて、ニコッと笑いながらこう言ったのだ。
「イッチくんってさ……“ほんと、こういう人と結婚したい”ってタイプなんだよね〜」
……いや、出たよ!またその爆弾!
ちょ、もう一度言って!?
っていうか、それ、普通にプロポーズみたいな発言じゃん!
おれは動揺しすぎて、手元のレタスを3枚くらい落とした。
しかもかなちゃん、そのあとすぐに
「あ、何も言ってないよ〜?」と、軽くウインクまでしてくる始末。
おれはもう、冷蔵庫のドアに頭打ちそうになりながら、本気で混乱していた。
──おれの中では、確信に近い何かが芽生えていた。
かなちゃん、絶対おれのこと好きでしょ?
こんなにわかりやすい好意をぶつけてくるなんて……って。
いや、違うか?
これが“あの人なりのフラグクラッシャー”なのか?
でも……でも……。
そのあと起きる、“事件”によって、すべての仮説は音を立てて崩れ去ることになる。
勘違いが確信へ、そして…笑撃の展開
その日、事件は起きた──いや、事件というほど大げさではないかもしれないが、おれにとってはとんでもないインパクトだった。
その日、かなちゃんとおれは珍しく二人きりのシフトだった。店長は外回り、他のバイトは急な体調不良でお休み。オープンから閉店まで、がっつり二人で回すことになったのだ。
「ねえ、イッチくん」
突然、かなちゃんがいつもの笑顔で話しかけてきた。
「今日さ、終わったらちょっとだけ残ってもらってもいい?」
……きた。これは、たぶん──告白フラグだ。
これまでの発言と伏線。そしてこのタイミング。バイト終わりの“ちょっと残って”なんて、ドラマでも見たことあるやつ!
「……もちろん、いいよ」
おれはなるべく自然な笑顔を作って答えたけれど、内心は心臓バクバクだった。
閉店作業も終わり、二人で戸締まりをして、電気を落とした店内に静寂が訪れた。
「イッチくん、こっち座って」
かなちゃんが指さしたのは、いつもお客さんが座るカウンターの席。そこに向かい合わせで座るというシチュエーション……やっぱり、これは──!
「ねぇ……イッチくんって、彼女とかいるの?」
直球きたーっ!!!
「い、いないけど……」
「そっか。うん、なんかそんな気がしてた」
かなちゃんは微笑んでうなずいた。その横顔が、妙にまぶしく見えた。
これはもう、確定演出では……?
だが、次の一言がすべてを崩壊させた。
「じゃあ、お願いがあるんだけど……」
「うん、なに?」
「うちの姉ちゃん、紹介してもいい?」
……は? え? えええっ!?
「……え? お姉さん?」
「うん、すごくいい人なんだけど、ちょっと奥手で……イッチくんみたいな優しそうな人がタイプっぽいんだよね〜って話してたの」
全ての電源が頭の中で一斉に落ちた気がした。
今までのやりとりは、まさか──「義弟にしたい」方向性の好意だった!?
「……そっかぁ……」
「なにそれ、その顔(笑)」
笑えねえよ!!
さらに追い討ちをかけるように、かなちゃんはスマホを取り出し、「お姉ちゃんの写真あるよー」とニコニコしながら見せてきた。
「えっ、これ……めちゃくちゃ綺麗な人じゃん……」
「でしょ! 顔は強めだけど、性格はめちゃくちゃ優しいから。イッチくんと話し合いそうって思ってさ」
おれはもう、何かに巻き込まれたような気分だった。完全にドラマのヒロインポジを勘違いしてたのに、実はサブキャラだったみたいな。
その後、連絡先を交換する流れにまでなり、まさかの“お姉さん紹介ルート”が進行してしまうことになった。
帰り道。夜風が妙に冷たく感じた。
──なんだったんだ、この数週間。
自分の中で勝手に物語を作り、勝手に盛り上がり、勝手に撃沈する。
これが……青春ってやつなのか?
笑えて、ちょっとだけ切ない。でも、きっとまたこういうことがあるんだろうなって思う。
そして、おれは静かに誓った。
「もう、かなちゃんの言葉には惑わされねぇ……!」
でも、翌週また「イッチくんって、絶対子ども好きでしょ〜。パパ向いてるよね〜」とか言われて、またちょっとだけ心が揺れるんだろうけど。
もはや疑う余地なし!? 勘違いはさらに加速する
「かなちゃんの言葉には、もう惑わされねぇ……」
そう固く誓ったはずだった。あの夜、帰り道の夜風に晒されながら、おれはひとり、己の甘さを噛み締めていたのだ。
──なのに。
翌日、おれは出勤して早々、吹っ飛ばされた。
「イッチくん、昨日のお姉ちゃんの件、ありがとうね!」
……うっ、ダメだ、まだ引きずってる。
あの“義姉フラグ”で、見事に撃沈したばかりのこの心に、かなちゃんの無邪気な笑顔は凶器だった。
「ほんと助かった〜。お姉ちゃん、すごく嬉しそうだったよ。“写真で見るより優しそうな子ね”って」
うん、うん……うん。
って、それ、おれの印象の話じゃん!?
やっぱり好意あったのでは? いやいや、違う、それはない。ないない。絶対ない。もうやめよう、妄想するのは。
──だが、神は、いや、かなちゃんは、あまりにも無邪気だった。
「でもさ〜、イッチくんって、ほんと恋愛経験少なそうだよね。かわいい(笑)」
この発言。
この爆弾ワード。
「恋愛経験少なそう」+「かわいい」=ふつう言う?
まただ。また言ってくる。まるで何事もなかったかのように。
しかも「かわいい」って。
なにそれ、愛玩動物としての「かわいい」なの? それとも、異性としての「かわいい」なの?
もはやおれの中では、「かわいい」というワードは“恋愛フラグの引き金”として登録されていた。
……こうして、おれの心は、再び揺れ始めてしまった。
頭ではわかってるんだ。
「それは好意ではなく、“ノリ”だ」とか
「おれが都合よく解釈してるだけ」とか。
でもなぜか、かなちゃんの言葉は心のど真ん中をズドンと撃ち抜いてくる。
このままだと、また“盛大な勘違い”をやらかすのでは?
いや、すでにやらかしてる気もするが、これは……もうどうにかしないと。
そこで、おれは“あかねさん”に相談することにした。
頼れる姉貴分・あかねさん。
なんでもズバッと言ってくれる人だし、かなちゃんの言動にも心当たりがあるはず。
「ねえ、あかねさん……。かなちゃんって、やっぱり“人たらし”ですよね?」
「は? 何、今さら気づいたの?」
「やっぱりそうなんですか……」
「うん。あの子、昔からそうなのよ。小学校のときなんて、クラスの男子ほとんど好きにさせてたからね。無自覚の魔性タイプってやつ」
なん……だと……?
「っていうかイッチ、まさかとは思うけど、勘違いしてた?」
「…………はい」
あかねさん、笑いを堪えきれず噴き出した。
「いやぁ〜、いたいた。歴代のバイト男子、だいたい一度は通る道なのよ。それ。初恋こじらせ系(笑)」
……やっぱり。
おれだけじゃなかったんだ。むしろ、テンプレだったんだ。
でも、あかねさんは続けてこう言った。
「でもね、イッチくん。あの子、最近ちょっと変わった気がするのよ」
「え?」
「イッチくんの話を、よくしてる。なんか、“安心する”とか、“優しすぎるからずるい”とか言ってたわよ」
ちょっと、なにそれ。
それ、やっぱりフラグですか? わかりません!!
その日の夕方、かなちゃんとレジ締めをしていたとき。
「ねぇ、イッチくんってさ、家事とか全部できそうじゃない?」
「まあ、一人暮らし長いんで……だいたいは」
「そっかぁ〜。なんか、誰かのためにごはん作ってる姿が似合いそうって思って。……私とか?」
──っ!!!
おいおいおいおい!!
「私とか」って、今サラッと言ったよね!?
それって、言っていいやつなの!? それ、プロポーズの下準備じゃない!?
「え……それ、どういう意味で……?」
「ん〜?どんな意味に聞こえた?(笑)」
ずるい。
ずるすぎる。
その笑顔、その言い方。そういうとこだぞ!!
おれの頭は完全に混乱していた。
一度は終わったと思った“かなちゃんルート”が、再び浮上し、しかも今回は微妙に現実味を帯びてきている。
いや、ないないない。騙されるな、イッチ。
──でも、今度の週末、なぜかふたりで映画に行くことになってしまった。
しかも、かなちゃんからの誘い。
「イッチくんって、あんまりデートっぽいことしてなさそうだから、連れてってあげる!」
……うん、わかった。もうおれは、君の手のひらの上だ。
週末の映画館。
最初は普通に観てたんだけど、途中でかなちゃんが小声でささやいた。
「イッチくんって、横顔かっこいいんだね」
またそれかよ!!!
おれはもう、映画の内容が1ミリも入ってこなかった。
帰り際、かなちゃんはこんなことを言った。
「ねぇ、イッチくん……。こういう時間って、なんかいいね。ずっと続けばいいのにって思っちゃった」
…………。
これは、もう……信じても、いいんだよな?
──というわけで、今、おれは決意している。
次のバイトのシフト終わり。
ついに、気持ちを伝えることにした。
おれの勘違いかもしれない。でも、このまま黙っていられない。
「好きです」って言ってみよう。
伝えるだけでもいいから。
そう思ったら、心臓の鼓動がやばいことになってきた。
これはプロポーズですか?──告白の果てに待っていたものは
ついにその日がやってきた。
イッチ史上、もっとも緊張したバイト終わりの夜だった。
店長もあかねさんも先に上がり、ラストは俺とかなちゃんのふたり。
静まり返った店内の空気が、いつもとまったく違う意味で重たい。
レジを閉め、掃除を終え、厨房のガスを落とし……。
その瞬間が、ついに来た。
「かなちゃん……ちょっと、いい?」
カウンターの裏にいるかなちゃんが「ん? なに?」と小首をかしげる。
その仕草すら、今日はやけに可愛く見える。
「……ちょっとだけ、話したいことがあって」
店の入り口横、二人掛けのソファ席。
照明を落とした店内に残る淡い明かりが、妙にドラマチックな雰囲気を演出していた。
内心では何度も練習したセリフが、喉の奥で詰まる。
でも、もう後には引けない。
「……あのさ、かなちゃん」
「うん?」
「おれ、ずっと……勘違いしてたかもしれないけど……」
かなちゃんが目をぱちくりさせる。
「でも、どうしても気持ちだけは伝えたくて……」
深呼吸。
「……好きです」
言った。
ついに言った。
逃げなかった。
噛まなかった。
変な語尾もつけなかった。
練習通り、いや、それ以上に、真剣な声が出せた。
……のに。
「え? あっ、ごめん、今なんて言った?」
聞き返されたぁぁぁぁぁ!!!
マジか。こんなタイミングで!?
心の中のナレーションが悲鳴をあげる。
おれは咳払いして、もう一度だけ言った。
「……おれ、かなちゃんのことが好きです」
その瞬間。
かなちゃんの表情が「えっ……!?」と一気に変わった。
驚き、戸惑い、困惑、そしてちょっとしたパニック。
口をパクパクさせたまま、数秒固まった。
やばい。
これ、完全に想定外のリアクション。
「ごめん、そんなつもりじゃ……なかったかもしれないよね」
おれが慌ててフォローを入れようとしたとき──
「ち、ちがうの! イッチくんのこと、すごく大切な存在って思ってる! ただ……えっ、えっ、あれ? これって……どういうこと!?」
え、どういうことは、こっちのセリフじゃん……。
そして──
「……ねぇ、イッチくんさ、もしかして、“この前の”こと、勘違いしてない?」
「この前?」
「“私とか”って言ったときのやつ……」
おれの顔がピキッと固まった。
「……あれ、完全に冗談だったんだけど!!」
ガッシャーーーーーン(脳内効果音)
「だってさ、イッチくん、真面目すぎるから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
からかってたーーーーーーっ!!!
「でも、ごめん! そんな風に受け取られてたなんて思ってなくて……。まさか、そんな……ガチで、だったなんて……」
……まじで言ってる?
こちとら、ここ数週間ずっと「これはもしかして本気?」って一人で悩んで、店のレタスを3回も床に落として、映画の内容1ミリも覚えてないんですけど!?
それからの時間は、もうお互いバツが悪すぎて、会話が上滑りした。
「でも、うれしいよ、そう思ってくれてたってこと……」
「う、うん……」
「ほんとにいい人だもん、イッチくんって。彼女できたら絶対幸せにするタイプ」
もはや“ご祝儀コメント”。
結局その日は、告白の答えが出たような、出なかったような。
いや、出てるけど「やんわり返された」って感じだろう。
帰り道。
“失恋”というほど重たくないのに、
“空振り”というには、ちょっとだけ本気だった。
でも──なんだか、スッキリしていた。
きっとこれは、勘違いから始まった一幕だけど、
それも人生で、一度くらいは経験していい“お笑い青春譚”だったのかもしれない。
……ところが、だ。
数日後。
あかねさんが、おれにこう耳打ちしてきた。
「ねぇ、イッチ。あの子さ、あれから“なんかドキドキして寝れなかった”とか言ってたよ?」
「……は?」
「“やっぱりイッチくんってズルい”だって」
なにそれ、どういう意味なんですか?
期待していいんですか?
また“かなちゃんワールド”に引きずり込まれるんですか?
「……もう、あいつの言葉は信じねぇ……!」
でも、おれは知っている。
また来週、「イッチくんって、絶対良い旦那さんになると思う」って言われたら──
おれはまた、心の中でちょっとだけ希望を抱いてしまうんだろうなって。
笑えるのに、忘れられない青春の一コマ
あの日の夜から、かなちゃんとは相変わらず同じようにバイトを続けている。
お互いに、特別気まずくなったわけでもないけど、どこか距離感が“少しだけ変わった”のは、やっぱり気のせいではないと思う。
けれど、それが居心地悪いわけじゃない。むしろ、少し大人になったような、そんな気分だった。
バイト先は相変わらず忙しく、厨房の換気扇はうるさく回り続けるし、食器はすぐ山になる。
でも、ふとした瞬間にかなちゃんと目が合うと、あの夜のやりとりを思い出して、なんだか笑ってしまいそうになる。
あれは、恋だったのか。
それとも、ただの憧れだったのか。
今となっては、自分でもわからない。
でも確かに言えるのは、“本気で勘違いしたこと”が、人生でこんなに面白くなるとは思わなかったってことだ。
ある日、あかねさんが言った。
「イッチ、あんた青春してるねぇ〜!」
何気ないそのひと言が、妙に胸に響いた。
そうか、これが青春か。
他人から見たら笑える話でも、自分の中ではとても大切な、忘れたくない時間なんだ。
大人になると、どこかで自分の感情を“フィルター”で処理するようになる。
これは勘違いだ、とか。
これは脈ナシだ、とか。
これはダサいから言わないでおこう、とか。
でも、あの時のおれは、真っ直ぐだった。
完全に勘違いして、思い込みで暴走して、思いっきりズッコケた。
でも、恥ずかしいとか、後悔とか、そういうのじゃなくて──なんか、全部ひっくるめて、“やってよかった”って思ってる。
そして最近、ちょっとした変化があった。
かなちゃんが、新しいバイトの後輩に「イッチくんって、ほんと面白いんだよ〜」と話しているのを耳にした。
「最初、私のこと好きだったっぽくてさ(笑)」
笑い話にされてるじゃねぇか!!!
でも、それもまたよし。
“笑われる”って、案外悪くない。
それは、おれが本気だったって証拠だし、かなちゃんもそれを受け止めてくれたってことだ。
それに──
「でもさ、イッチくんって、マジでいい人だと思うんだよね」
と、続けて言ってたのも、ちゃんと聞こえてた。
今はまだ、この気持ちがどこに向かうのかはわからない。
でも、ひとつだけ確かなのは──
このバイト先での“プロポーズ勘違い事件”は、おれの中で一生忘れられない“笑える青春小話”になった、ということだ。
今度誰かが恋で悩んでたら、おれはきっと言ってやる。
「それ、勘違いかもしれんぞ。でも、一回くらい全力で勘違いするのも悪くないぞ」って。
笑われてもいい。
どうせ人生なんて、笑われたもん勝ちだ。