それはレジ下に落ちていた──「謎のメモ事件」のはじまり
「イッチくん、今日もお願いねー!」
出勤して5秒、今日も元気なかなちゃんの声で始まった。
あいかわらず、うちのバイト先は平和だ。
ここは個人経営のカフェ。チェーン店ほど忙しくはないけど、常連さんが多く、まったりした雰囲気が売りだ。
……まあ、平和なのは表面上で、厨房の奥では時々、あかねさんがバターナイフを振り回して怒ってたりする。
俺の名前はイッチ。
大学2年生。バイト歴はかれこれ半年ほど。慣れてきたころで、トラブルにもそれなりに対応できるようになった。
でもこの日──おれの“バイト史上、最も謎な事件”が起きることになる。
きっかけは、何気なくレジ下の棚を整理していた時だった。
「……ん?」
紙切れが一枚、棚の隅っこに挟まっていた。
おれは何の気なしにそれを取り上げた。
折りたたまれた小さなメモ用紙。白地に、青いペンで何かが書かれている。
なんだこれ、伝票……じゃないな。手書き?
広げてみると、そこにはこう書かれていた。
「あの人が、まだ気づいていませんように」
……は?
なにこれ。
意味、わからん。
まさか、なにかの“置き手紙”? いや、怖い怖い怖い。
おれは思わず辺りを見回した。
誰も見ていない。厨房は静かだ。
でも、この文字──女性の字っぽいな。丸みがあるというか。
「誰のだ……?」
とりあえず、伝票じゃなさそうなので、ゴミ箱に入れようとした──その瞬間。
「ちょっとちょっと、なにそれ!?」
厨房の隙間からぬっと顔を出したのは、あかねさんだった。
ベテランスタッフ、毒舌姉御、そしてゴシップ好き。
「ん? なんかメモ落ちててさ……」
「ちょい貸しなさいよ」
あかねさんはメモを覗き込んだ。
「あの人が、まだ気づいていませんように」
読み終わったあかねさんが、絶妙な表情になった。
「……これ、事件の匂いがするわね」
え、事件!?
その後、かなちゃんも合流し、厨房の奥は一気に“探偵事務所”と化した。
「どうする? これ、告白のメモとかだったら……!?」
「いやいや、“気づいていませんように”って、むしろ隠し事系じゃない?」
「浮気? 不倫? 借金!?」
おれの手の中のただの紙切れが、三人の妄想によって爆速でサスペンス化していく。
「これ、もし“あの人”が私たちの誰かだったら……」
「いやそれだとヤバいヤツすぎません!?」
「“まだ気づいてませんように”って、たとえばレシートをこっそり持って帰ったとか……」
「それで!? 何に気づくんですか!? どんな陰謀なんですか!?」
この時点で、俺の中では「ちょっと面白いな」くらいになっていた。
最初はゾッとしたけど、なんだかんだで、これはこれで“おもしろ事件”じゃないか。
「でもさ、誰が書いたんだろう……」
「筆跡からして、女性っぽいよね」
「うちの常連さんって、ほぼ女性だからなぁ」
「誰か特定できれば話は早いんだけど……」
かなちゃんがぽつりと呟いた。
そのとき、厨房の奥から、あかねさんの「はっ!」という声が響いた。
「思い出した! この字、見覚えある!!」
「まじですか!?」
「うん、たぶんあの人……この前、ひとりで来て、ずっとスマホでメモ見てた女性! ほら、編み物してた人!」
「……えぇーっ!?」
もはやおれの頭の中では、“編み物中に秘密を抱えてた謎の女性”という設定が完成しつつあった。
おれたちは、こっそりそのお客さんが座っていた席を確認しに行った。
あの日の伝票、残ってた。名前は書いてないけど、注文内容と時間帯から、なんとなく顔は思い出せる。
「この人……かなり常連さんだよね?」
「確かに週1くらいで来てるかも……」
かなちゃんがちょっと真剣な顔になって言った。
「ねえ、これって……もしかして、わたしたちに関係ある?」
え?
「たとえばさ、“あの人”って、店員の誰かって可能性もあるよね?」
「えっ、おれ?」
「え、じゃあわたし? それとも、あかねさん?」
「全員当事者の可能性あるじゃん!!」
結局、メモの正体はわからないまま、その日は終わった。
でも、その“わからなさ”が、逆におれたちの想像力をかき立てていた。
メモ一枚でここまで盛り上がれるなんて──
平和なバイト先に、突如現れた“謎の事件”に、おれたちは少しワクワクしていた。
勝手に始まった探偵ごっこ──“あの人”は誰だ!?
「気づいていませんように」の主語は誰?問題
「この字、あの編み物の人だと思うんだけどな~」
そう言いながら、あかねさんはメモを指差して得意げに頷いていた。
イッチことおれは、その横で「そんなに確信あるなら警察に行けるレベルじゃん……」と若干引き気味だったが、口には出さなかった。
「で、何に気づいていませんように、なんだと思う?」
かなちゃんが真剣な顔で言った。まるで“課題提出に追い込まれた学生”のような集中力である。
「っていうか、“あの人”って誰だよ」
「まずそこだよね。“あの人”って、誰?」
「おれ? 店長? まさか、あかねさん?」
「なんでよ」
誰もが誰かを指差しながら、「あの人」の犯人探しが始まった。
いや、事件でもなんでもないのに、犯人を探し始めてしまう。
こういうときの人間って、本当に面白いと思う。
脳内会議、開幕──“気づかれて困ること”ランキング選手権
「あの人が気づいていませんように……かぁ」
かなちゃんが腕を組んで考え始めた。
「たとえばさ、こういうのどう?」
- 本当は彼氏がいるけど、店の店員に好意を持たれてると思ってて……
- 実は不倫してて、この店にその相手が偶然来てて……
- メニューの値段を間違って払ってしまったことに、まだ気づいていませんように……
「うわ、それ全部ヤバいやつ」
「え? でも妄想って自由でしょ?」
「自由だけど、それ刑事ドラマの序盤で起きるヤツだから」
しかもそのどれもが、「いや、そんなドラマチックな展開この店に起きねえよ」と思わせるものばかりだ。
「じゃあさ、逆に、あのメモの人が“かなちゃん”のことを指してたら?」
「わたし!? なんで!?」
「だってさ、ほら、“あの人”って男女問わないじゃん? もしかして“かなちゃんが私のことに気づいていませんように”みたいな」
「やだ、ちょっと怖いってそれ!」
「もしくは、“私の思いが届いていませんように”的な?」
「いやだから恋愛の方向に持ってくのやめて! ほんとやめて!」
店内の空気はますますカオスになっていく。
こんなに真剣に意味のない議論をしているのに、なぜかやたらと楽しい。
あかねさんの「マジ推理」が止まらない件
あかねさんが、今度は本気の顔をして言った。
「イッチ、あんた、その時の防犯カメラ見返せない?」
「いや、店長しか録画データいじれないですよ……」
「じゃあ、店長に“落とし物調査”って名目で聞いてみなよ」
「名目って……それ、もはや私的利用……」
「これは“真実の追求”であって、ゴシップじゃないの」
……十分ゴシップだと思うけど。
「でも、あの人また来たら、今度こそ聞けるかもね」
「“すいません、このメモってあなたのですか?”って?」
「いやいや、そんな直球で行ったら“うわ、やばい人だ”って思われるって!」
「じゃあ、さりげなく、“最近何か落とし物ありませんでしたか〜?”って聞く?」
「それ、さりげなさすぎて通じないやつ」
そうこうしているうちに、あかねさんが新たな仮説を出してきた。
「……実はこれ、あの人自身が何かに気づかれたくなかったんじゃなくて、“自分自身がまだ気づいてないようにしたい”という心理状態を表してる説」
「どういうこと!?」
「つまり、“気づいたら戻れないような何か”に踏み込みたくなくて、“まだ気づいてませんように”って自分に言い聞かせてるのよ」
「それ、“ポエム系自己啓発メモ”じゃないですか……」
そして、まさかの展開
その日の営業が終わりかけたころ。
一通の電話が鳴った。
「はい、○○カフェでございます」
電話を取ったかなちゃんが、ちょっと驚いた顔をする。
「あっ……あの、もしかして、メモの件で……?」
何!? メモ!? 本人!?
電話の向こうの声にうなずきながら、かなちゃんがこちらを見る。
「イッチくん……あの編み物の人かも。なんか“忘れ物をしたかもしれない”って……」
来た。
ついに来た。
忘れ物の主が現れた。
これはまさかの、直接対決フラグ。
その人は、明日また来店するとのこと。
「イッチくん、明日、勝負のときだね」
「いや、なんの勝負!?」
「真相を明らかにする日……“メモの謎を暴け・後編”よ」
「え、それ連ドラだったの?」
そして、妄想と茶番劇に振り回されながら、
イッチはなぜか明日に向けてシャツにアイロンをかける決意をするのだった。
ついに現れた“メモの主”──まさかの真相に全員ズッコケ!
ドキドキの再来店、静かな決戦の火蓋
翌日。
出勤前にシャツにアイロンをかけていた自分を、後になって全力で後悔することになるとは、このときはまだ知らなかった。
店に着いたおれを、あかねさんが「戦場へようこそ」と言わんばかりの顔で迎えた。
「今日が勝負の日ね」
「いや、何と戦うんですか。しかもなんで私だけ……」
「“謎のメモ事件”の目撃者第1号であり、キーパーソンであり、犯人(?)に一番近づいた男、それがイッチ!」
かなちゃんも「名探偵イッチさん、出番ですっ!」と謎のテンションで乗っかってくる。
バイト先でこんな“遊び心”が許されるのは、この店がとてつもなく平和な証だと思う。
そして、お昼を少し回ったころ。
彼女は、また編み物を持って、ふわっとした雰囲気で現れた。
あの人だ。
間違いない。
おれとかなちゃんは厨房の影から小声で確認し合った。
「絶対あの人だよね……!」
「間違いない! セーター半分くらいできてる!」
進捗情報いらんて。
「イッチくん、さりげなく“あのメモ”について探ってみて」
「いやいや、さりげなくって無理じゃん。探偵ドラマみたいに“偶然見つけたんですけど〜”って?」
「うん、それ」
軽く言うな!
でも、おれは覚悟を決めて、テーブルに水を出すタイミングで話しかけることにした。
運命の対面、そして恐る恐る切り出す
「本日はご来店ありがとうございます」
まずは型どおりの挨拶。
彼女はいつも通り優しくうなずいた。
「今日も、あの席よろしいですか?」
「はい、いつもの席で」
おれは水をテーブルに置きながら、ドキドキしながら言った。
「……あの、少し前にこちらでメモの落とし物があったんですけど……もしかして、心当たり……ありますか?」
彼女は一瞬、目を丸くした。
そして――笑った。
「えっ、もしかして……“気づいてませんように”って書いたやつ?」
ド直球で返ってきた!?
「は、はい、それです」
「……あははっ! あれ、わたしが書いたんです〜! ごめんなさい、なんか、ちょっと恥ずかしいですね」
恥ずかしい? それってやっぱり、何か後ろめたい秘密的な──
「実は……編み物してるとき、間違えて2段くらい飛ばして編んじゃってたんですよ。でも、戻すの面倒くさくて……」
……え?
「そのときに、“あの人”(=先生)に気づかれてないといいなって思って、メモに書いておいたんです」
「せ、先生……?」
「はい、編み物教室の先生! あとで写メ送る予定だったので、それ見てバレたらイヤだな〜と思って(笑)」
……えぇぇぇぇぇーーーーーーーー!!?
おれ、盛大にズッコケそうになった。
この24時間の、おれたちの探偵ごっこ、完全に空回りだったじゃん!
かなちゃんとあかねさんにこの事実を報告したとき、二人とも5秒くらい沈黙してから──
「ぷっ……くっ……うははははははは!!!!」
大爆笑。
厨房の奥でひとしきり笑い転げたあと、かなちゃんが顔を赤くしながら言った。
「じゃあ、“あの人”って、編み物教室の先生だったんだ……!」
「“気づいていませんように”って、編み物のミスって……」
「なんだこの純粋すぎるオチ……!」
もう、涙出るくらい笑った。
誰かの“勝手な妄想”は、いつも滑稽でちょっと愛しい
そのあと、彼女は紅茶とケーキを頼んで、ふわっとした雰囲気のまま去っていった。
メモのことにはもう触れなかったけど、なんだか“こっち側”が勝手に騒いだことが恥ずかしくて仕方なかった。
あかねさんがしみじみとつぶやいた。
「妄想って、楽しいけど、現実はだいたいあっさりしてるわよね〜」
かなちゃんも笑いながらうなずいた。
「でも、それも含めて、バイトってやっぱり面白いですね!」
たかがメモ。されどメモ。
そんなちっぽけな出来事で、一日中ドキドキしたり、笑ったり、想像を巡らせたり。
「なんだかんだ、人生って、こういうのが一番楽しいのかもな」
おれは勝手にそう結論づけて、メモの写メをそっとスマホに保存した。
将来、飲み会のネタとして語るときのために。
メモ事件が終わって、ようやく平和になったはずだったのに
「イッチくん、おつかれ〜」
あかねさんが、いつものようにテンション高めに声をかけてくれた。
あれから数日。あの「メモ事件」も無事に(?)解決し、バイト先には再びゆるやかな平和が戻っていた。
とはいえ、あのときの妄想祭りがあまりに楽しかったのか、あかねさんもかなちゃんも、「次は何が起きるのかしら〜」と妙に前向き(?)になっている。
平和って、案外すぐ飽きるもんなんだな。
おれはそう思いながら、今日もいつものようにレジ横でトレイを拭いていた。
そのとき。
「……あっ、ごめんなさい!!」
店内に響く大きな声。
振り返ると、入りたての新人バイト、さやかちゃんが慌ててお冷のピッチャーを持ち直していた。
どうやらお客さんのテーブルに置こうとして、少しこぼしてしまったらしい。
「大丈夫ですか? こちらでお拭きしますね!」
おれはすかさず駆け寄り、紙ナプキンを持って応急対応。お客さんは優しい人だったので、「いいのよ〜、お気になさらず」と笑ってくれた。
さやかちゃんは顔を真っ赤にして何度も頭を下げていた。
「ごめんなさい……ほんと、私、なんかいつもドジで……」
「大丈夫、大丈夫。慣れるまで誰でもあるから」
おれはそう言って笑ったけど、さやかちゃんの肩は小刻みに震えていた。
「……イッチさんが辞めたら、私、どうしたらいいんだろうって……」
「……え?」
誰も言ってないのに「辞める説」が爆誕するまで
「え、辞めるって……誰が?」
「え? イッチさんですよね? もうすぐ辞めちゃうって、かなさんが……」
おれは一瞬、脳がフリーズした。
「いや、言ってない言ってない!! てか、辞めないし!!」
数分後、かなちゃんを問い詰めた。
「かなちゃん、“おれが辞める”って、なんでそんな話に?」
「えっ、あれ? でもほら、こないだ“単位がヤバい”って言ってたから、“そろそろバイト控えるかも”って……」
「ああ……確かに言ったけど、“ちょっとシフト減らすかも”くらいの話だったよね?」
「えへへ、盛っちゃったかも!」
いや、盛るな!!
その話が“イッチ、今月でバイト辞めるらしい”という形で、さやかちゃんに伝わったらしい。
こうして、おれの知らぬ間にバイト先で「イッチ辞職説」が広がっていた。
噂が噂を呼び、あかねさんがまた暴走する
「イッチが辞めるですってぇえええ!?」
案の定、あかねさんの耳にも入った。
「そんなの店の一大事よ! イッチがいないと、厨房とホールの潤滑油が失われるじゃないの!」
「オイル扱いはやめてください」
「そもそも、私、イッチが辞めたら誰にしょうもないダジャレ言えばいいのよ!」
「言わなくていいと思います」
「かなちゃん! あんた責任取って結婚しなさいよ!」
「話飛びすぎでしょ!?」
店内がまたカオスになってきた。
人間ってほんと、勝手に想像して、勝手に盛り上がるのが得意だと思う。
そして、まさかの“決定打”が入る
その日、夕方に来店した常連のおばあちゃんが、おれに声をかけてきた。
「イッチくん、辞めちゃうんですって?」
「またかーーーー!!!」
おばあちゃん曰く、近所のパン屋で働いてる人から聞いたとのこと。
なぜか「イッチくん、来月から別のカフェに移るらしい」という噂になっていた。
おれ、ヘッドハンティングされたことになってる!!
「誰よそんなこと言ったの!? おれそんなスカウトされてねぇし!」
「ほんとよね〜、このご時世に移籍とか、アイドルかよ!」
とうとうあかねさんが「貼り紙作る!」と言い出す始末。
【お知らせ】
イッチくん、辞めません!!!
むしろ続投決定です!!!
「続投って、ドラマじゃねーんだよ……」
笑ってるだけで、誰かの安心になることもあるらしい
さやかちゃんは、翌日そっとおれに言った。
「ほんとは、誰かが辞めるとか辞めないとかって、そんなに影響しないかもって思ってたんですけど……イッチさんがいるって、すごく心強くて……」
「いや、おれなんてただのお冷配り要員だよ?」
「それでも。イッチさんがいつも笑ってるから、ちょっとだけホッとするんです」
そう言って、さやかちゃんは少しだけ笑った。
「イッチくんってさ、“事件”を呼ぶ男だよね」
かなちゃんが言った。
「ほんとほんと、来るだけで何かが起きるもんね〜」
「芸能人かよ」
そんな会話をしながら、また一日が終わっていった。
でも、事件があろうとなかろうと、
誰かと笑い合ってるこの時間が、バイト生活の一番の“栄養”なのかもしれない。
今度は“イッチと店長が揉めた説”!? またしても巻き起こる珍騒動
辞める説が消えたと思ったら、今度は“険悪説”?
前回の“イッチ辞める騒動”から3日後。
ようやく平和な日々が戻ってきた……かと思いきや、またしても奇妙な空気が店内を漂い始めた。
おれがレジで注文を取っていたとき、あかねさんが近寄ってきて、なにやら深刻そうな顔でささやいてきた。
「ねぇ……イッチ、店長となんかあった?」
「は? なんで?」
「昨日、バックヤードから出てきた店長が“もう限界かもしれない……”ってつぶやいてたの聞いちゃって」
「え、それって普通に在庫管理の話とかじゃないんですか?」
「でもさ、その直後、あんた厨房から“はぁ〜〜〜〜っ!!”ってため息ついて出てきたでしょ」
「いや、それ冷凍庫が重すぎただけで……」
あかねさんの妄想センサーが、またしてもフル稼働していた。
噂は増幅されるのが世の常
その日の夕方、かなちゃんが声を潜めて話してきた。
「ねぇ、今日の常連さん、なんか気まずそうにしてたの気づいた?」
「いや、普通にケーキ食べて帰ったような……」
「“あの子が辞めた後、あの店もちょっと雰囲気変わったよね”って言ってたの。イッチくんのことじゃない?」
「いやいやいや、まだ辞めてないし! てか、その前提がもうおかしいし!」
それどころか、裏のラーメン屋の店主からも、
「なんか、こっちでも噂になってたよ。“あのカフェのメガネの子と店長がギクシャクしてるらしい”って」
メガネの子=おれ。
なんで、こんなにナチュラルに尾ひれがついていくのか。
「店長とギクシャク」って何だよ、どこの昼ドラだよ!
さらに重なる“誤解のミルフィーユ”
その日の営業後、店長にちょっと相談を持ちかけた。
「店長、あの……なんか俺と揉めてるみたいな噂が流れてるみたいで……」
「はぁ!? なんでそんな話になってるの!?(笑)」
「“限界かも……”って言ってたのがきっかけみたいで」
「あー、あれ! それ、冷蔵庫の寿命の話!!」
店長曰く、最近ずっと調子が悪かった業務用冷蔵庫が、ついに冷えなくなってきており、そのことをボヤいたらしい。
「まさか、それが“人間関係の限界”だと思われるとは……」
「それを間に受けて、“イッチと店長が険悪”ってなってます」
「もう、どこの劇場型カフェだよここ」
ふたりで爆笑した。
その場面をこっそり見ていたあかねさんが、「えっ……本当に笑い合ってる……まさか、和解の瞬間……!?」と呟いていた。
いや、最初から仲良しだから。
さやかちゃんの涙と、誤解の連鎖の終焉
その翌日、またもさやかちゃんがそわそわしていた。
「イッチさん……あの、ほんとは辞めちゃうんですか? やっぱり店長とケンカ……?」
「えぇ……まだその説生きてるの……?」
「あかねさんが、“あれは表向きだけで、裏では色々あるのよ”って」
もう完全に昼ドラじゃん!
「あのね、さやかちゃん。あかねさんは“職場に刺激がほしい系の人”だから、話を信じすぎたらダメだよ」
「……あっ、はい……!」
おれが全力で否定したことで、ようやく“イッチ×店長バトル編”は終息を迎えた。
あかねさんには後で「劇場型じゃないほうの現実って、つまんないのね」とため息つかれたけど。
でも、きっとこれも“笑い話”になる
結局、今回も何事もなかった。
ただのすれ違いと、盛りに盛った妄想によって作り出された“フィクション”。
だけど、イッチくん本人はこう思ってる。
「……まぁ、これがなかったら、バイトってただの作業だったかもな」
怒涛のように押し寄せる誤解と妄想。
でも、それをネタに笑い合えるのって、案外幸せなことなんじゃないかと思う。
しかも、“オチがある日常”って、なんか悪くない。
くだらないことで笑える日々が、いちばん愛おしい
あれこれ騒いで、ようやく静けさが戻った店内で
「イッチくん、ほんとに辞めないのね? もう最後の最後まで信用できないわ」
あかねさんは、アイスコーヒーのグラスを磨きながら、まだ疑いの目を向けてくる。
「信じてくださいよ、ていうか俺、どこにそんな行く宛てあると思ってるんですか」
「うーん……新進気鋭の若手バリスタとして、都会のカフェにスカウトされる系?」
「ないない。そんなポジション、地元の大学生に回ってくるわけないでしょ」
かなちゃんが、くすくす笑いながら話に乗ってくる。
「でもイッチさん、いつもお客さんに丁寧だし、厨房の回しも上手だし、実は隠れハイスペなのでは……?」
「ないないない、やめてその“持ち上げといて落とすやつ”の匂いしかしないやつ!」
騒動のあった一週間は、正直ぐったりするくらい色々あったけど、振り返るとほとんど“何も起きてなかった”のに、なぜか充実していた気もする。
「ねえ、バイトって、もっと退屈なもんだと思ってたけどさ……」
ふと、おれが漏らしたそんなひと言に、みんながふっと静かになった。
バイト=人生の暇つぶし、のはずが
「私、初バイトがここで良かったって思ってますよ」
さやかちゃんがぽつりと、少し照れながら言った。
「最初、すごく緊張してたし、ミスばかりで泣きそうだったけど……イッチさんやあかねさん、かなさんがいてくれて、何度も笑えて、ホッとできて……」
かなちゃんが「泣かないで〜!」とおどけたように言いながら、頭をポンと撫でてあげた。
「笑えるって、すごいことなんだよね。毎日、真面目に働いてるのに、何かしらおかしくて……」
「ほんとそれ。私たち、ある意味、人生のネタ収集に来てるのかもね〜」
「給料もらえるネタ収集、最高じゃん!」
バカみたいなやりとりが、なぜか胸に沁みる。
「イッチくんって、さ」
「はい?」
「なんかこう……“大事件”を呼ぶ体質だよね。天気予報で言うところの“局地的大誤解発生注意”みたいな」
「その予報、精度ゼロでしょ……」
「でも、そういう人がいるって、場が明るくなるのよ。誰かが“笑われ役”になれるって、けっこう貴重なことなの」
あかねさんのその言葉に、おれは少しだけ真顔になった。
“くだらなさ”のなかに、本音が隠れてる
思えば、このバイトに入ってから――
「接客は笑顔で」とか、「報連相をしっかり」とか、マニュアル的なことは山ほど教わったけど。
それよりも、なんとなく得た“勘”や“人との距離感”が、ずっと大きかった気がする。
それは、あかねさんの大袈裟すぎる反応だったり、かなちゃんのツッコミだったり、さやかちゃんの真面目すぎる素直さだったり。
バイト先のこの空気のなかで、おれは何度も笑って、失敗して、勘違いして、ツッコまれて――
それを“繰り返すこと”で、なんとなく自分の輪郭が分かってきた気がする。
たぶん、普通の大人の職場じゃ、こんなにしょうもないことで盛り上がる暇なんてない。
「レジ下に落ちてたメモが気になる」なんて、社会人の世界じゃ、きっと誰も構ってくれない。
でも、ここではそれが“事件”になって、“笑い話”になって、誰かの記憶に残る。
「バイトって、案外、人生の縮図かもな」
ぼそっと呟いたその言葉を、誰も聞いてなかったのは、まぁいつものことだ。
また、何もない日々が始まる。でも、それがいい。
その日、おれはシフトを終えて帰る前、厨房にひとり残って、片付けをしていた。
あかねさんは「歯医者〜」、かなちゃんは「推し活の現場へ」、さやかちゃんは「期末レポート」で先に上がっていた。
静かな店内に、グラスを洗う音だけが響く。
なのに、なぜか笑ってしまった。
ほんの数日前までは、“イッチ辞める説”でザワついて、“イッチと店長がバチバチ説”に振り回されてたというのに。
何事もなかったように、日常は続いていく。
「あの……そこの冷蔵庫、また音変になってますよ〜」
店長が厨房の奥から顔を出した。
「あー、またか。ほんと、そろそろ限界かもな〜」
その言葉に、おれはピクリと反応したあと、ふっと笑って、
「……あかねさんに聞かれたら、また面倒ですよ」
「マジで勘弁して……!」
ふたりで笑いながら、またくだらない日常に戻っていく。
バイトって、めんどくさいことも多いけど。
たまに、こうして笑える瞬間があると、「もうちょい続けてみっか」って思える。
きっとこれからも、おれは「誤解される男」として、しょーもない事件に巻き込まれながら働いていくんだろう。
それでいい。
いや、それがいい。